2010年9月20日月曜日

どもりなど劣等感の克服術

どもりなどの劣等感は気にしない。

『劣等感は偉大なる資産』

ほとんどの人が「劣等感」の中に強いエネルギーが含まれていることを知らない。

「劣等感」の使い方によって人間はオオバケもするし、大成功する。

世の中の指導者の多くが劣等感の本質を知らない。

だから大手でも極力「劣等感」のない人を採用する。中小企業とくに零細企業に勤める多くの社員さんたちは「劣等感」を十分に含んでいる。しかし、ほとんどの指導者がその活用方法を知らない。

「おちこぼれ」はほんの少しだけ、他人からの愛情が欠如している場合が多い。しかし、彼らのほうが豊かな愛情を含んでいるのだ。

劣等感は偉大なる資産なのだ。


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2010年9月12日日曜日

『劣等感は学習期間』 海に突き落とされた。

どもりなどの劣等感は気にしない。


『劣等感は学習期間』

小学校に入学すると、私はある学習を始めていたのである。『劣等感』という勉強をしていたのだ。劣等感は劣等感を生み、日増しに拡大していく性質を持っている。

それでも母は、常に笑っていた。

私自身、学校が嫌いでなかったのは不思議である。よく学校は休んでいたけれども体調のせいで休んでいたのであって、体調がいいときは学校には行っていた。授業を出ずに校庭の鯉にエサをやったり、ウサギに草をやったりして遊んでいることもしばしばあった。

そんな中、父が見かねてか私をてんま船で私を海に連れて行った。海の沖へ沖へと舟を進め島の300mほど沖で船を止めた。海には石灰岩の洞窟だらけの島が二つあり、島と島の距離は2kmほどある。いずれも国の天然記念物に指定されている美しい島だ。

一方の島の沖で突然、わたしを突き落としたのだ。かなずちの私は恐怖でいっぱいだったが泳ぐしかなかった。「向こうの島の洞窟まで泳げ!」父はそれだけを言ったのだ。

10歳の私にとって2k先の島は無限の距離だ。その時の私は父を鬼としか思わなかった。

いや、まさしく鬼である。気がついたら何とか泳いでいた。無限の時間が過ぎ、なんとか島の洞窟にたどり着いたのだ。洞窟周辺で泳ぐことは今でも凍りつくような恐怖を感じるのだが、その時は不思議と恐怖心はなかった。後で聞くと3時間以上泳いでいたらしい。

これが父の愛情だったのだ。嘔吐や下痢がなおった。給食が普通に食べれるようになったのである。これが父の愛情だったのだ。どもりも治った。

2010年9月9日木曜日

『劣等感との戦い』

『劣等感との戦い』


高学年になっても一向に成績は上がらず、劣等感そのものが消えることはなかった。

しかし、お陰で私は、海や山で活発に遊ぶようになった。

夏には一人で海へ出て漁師さんに小さな船を借りて櫓(ろ)をこいで沖へ出た。ある日、小さなてんま船を借り、海の沖で釣りをしていた。キス・メバル・アイナメなどを手釣りで釣るのだ。

きっと誰かが学校へ通報したのだろう。学校の職員室に呼び出され、1・2時間こっぴどく叱られた。小学生が海の沖で一人で釣りをしているのだから叱られるのも当然といえば当然である。

先生は家にまでやって来た。父に叱られると思っていたが父は私にこういった。「海は潮が読めれば(潮を読む:潮の流れや風を経験や感で知ること)安全だ!国道や県道のほうがはるかに危険だ!」と言った。父は私の遊びを肯定してくれていたのである。


秋には山へ入り、しめじ、茶しめじ、ねずみたけ、じこぼ、いぐち、はったけ、マツタケといったきのこをとった。きのこの種類や生える場所もすべて熟知していた。

春には蕨(わらび)や太郎の目などの山菜をとった。私しか知らない池エビの生息場所があり、そのエビを取り、釣り道具やさんに売って小遣いにしていた。山や海は私の世界であった。


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2010年9月7日火曜日

『特殊な少年時代』

私の少年時代は、かなり特殊な孤独なに思えるかもしれないが実はそうではない。

家に帰ると、ピッチという名の雑種犬とカブという名の少しボクサーの血が混じった犬がいた。

白ウサギもいたし、シマリスが二匹いた。

二階の小さなベランダには鳩がたくさんいたし、鳩の横のカゴにはかわいいフクロウが二匹いた。カゴの下にはチャボ(小型のにわとり)が3匹いた。

手のり文鳥もいたし、十姉妹(じゅうしまつ)もいた。
庭の小さな池には小学校から、くすねてきた錦鯉もいたし、近くの池で釣った巨大な亀やフナがいた。

また、名のない猫が三匹うろうろしていた。退屈をすることはほとんどなかった。彼らはすべて私にとてもなついていたし、私を必要としていた。このような環境が後ほど出てくる小グリマリット戦略に影響してくる。

学校が終わると、家は毎日のように悪童たちであふれかえっていた。秀才の子もしばしば混じっていた。「おちこぼれ」とはいってもそれなりに人間関係はうまくやっていたのだ。

夏の夕刻には近所のお寺からコウモリの大群が我が家に飛んできた。何故、コウモリが我が家に来ていたのか未だに謎である。

出来が悪い子ほどかわいいと言うが特に祖父母には溺愛されていた。

どのような山村かと思うかもしれないが、当時は小さな町でありながらかなりの繁華街であった。近くはパチンコ店や映画館でにぎわっていた。今は静かな住宅地になっている。

2010年9月3日金曜日

『たった一つの自信が人生を変える。』

中学に入り、クラブ活動で水泳をはじめたことにより、体は少しずつ丈夫になっていった。なんと中学2年の新人戦で県優勝したのだ。これは極めてラッキーで強い選手がほとんど怪我や病気で棄権したためだった。

それでもバカにされているのではないかという「劣等感」は消えなかったのである。

潜在意識に刻み込まれた「劣等感」はそう簡単に消えるものではない。

「そろそろ勉強しようか!」「やればできるとおもうよ!」と兄が声をかけてきた。

算数や数学は日本では九九(くく)が出来ないとさっぱりわからない。まだ九九が出来なかったのだ。


私は九九を必死で暗記した。中学二年の夏休みであった。私の周りはみんな因数分解をしていた。

当時の学校の先生にこの本を持っていく勇気はない。これは劣等感ではなく、私が経営をしている知ったら気絶するかもしれないからだ。

それから懸命に勉強をした。生まれて始めて1日に10時間近く机の前で勉強をした。何とか地元の普通科進学高校へ入学した。このときに『劣等感』から始めて開放されたのだ。

大学を卒業し、サラリーマンになったが父も母も病弱なので24歳で結婚し、故郷に帰った。

27歳で母が病に犯され、私が小さな小売店を引き継ぐことにした。3年後母が他界し、翌年追うように父も他界した。

私が少年期に会得したものはまさに「劣等感」である。とても稀有な少年期であったがこれが生きるエネルギーの元になっているといっても過言ではない。

「おちこぼれ」と「劣等感」はまさに同じものである。


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2010年9月1日水曜日

劣等感は資産

私自身のことにふれてみる。
昭和の20世紀少年といったところである。

私は父は公務員、母は小さな文具店の店主という家の次男坊として生まれた。海まで歩いて1・2分ほどの漁師町である。幼い頃から病弱で両親には常に迷惑をかけていた。

他人の前では、言葉が出なかった。いわゆるどもり・吃音(きつおん)である。

劣等感が極限にくるとどもりになる。

小学校に入学しても体は学年で一番小さく、学校も休みがちだった。とにかく学校給食を食べていたのだが給食を食べると決まって吐き戻すか下痢をするかで、私だけ特別の弁当を母が作ってくれた。

体育の授業はとてもみんなについていけず、勉強はというと、これも最低のレベルだった。


各教科の成績はすべて最低で、体育は200mのトラックを一周するのにどういう訳か、必ず2回ころんだ。何回走っても2回ころぶのだ。

かけっこは常にビリで運動会がくると決まって嘔吐した。しかしながら図工だけはどういうわけか常に最高の成績だった。成績表に1が並んでも図工だけは5だった。

自分の能力が他人よりかなり劣っていると気づき始めたのは小学校4年生の頃だった。

父は帝大出のエリートで年の離れた兄は一流の科学者になった。「何で僕だけが・・・」

という思いがあった。